Twitterにはわりとすぐに慣れたのだけど、どうにもこうにもFacebookは慣れなかった。現在もアカウントは残してあるけれど、近づいていない。まぁmixiもそうだったね。
なんとなく、自分にとってのその違いが見えてきた。
最初はFacebookはブラウザを立ち上げなければならないから面倒なのかな?と思ってた。まぁ他のクライアントもあるけれど、Twitterと一緒に表示できるのもあるけれど、どうにも画面占有率が大きくて気に入らない。さぁFacebookやるぞ、と思って立ち向かわないと触れられない感じ。Twitterでも同様のクライアントは多いのだけど、今は(もうずっと)twhirlというのを画面隅に常駐させていて、ながら見でやっている。ふと目に着いたときに見る、というパターン。
まぁ使い方にも依るんだろうな。TwitterでもTLを全部読もうとすれば、そういうながら見での使い方にはならないだろうし、フルスクリーンで見たりしても何の問題もない。
では、twhirlのようなクライアントがあればFacebookに移行するか?と言われればNoだろう。まぁ現在のtwhirlと並べて使うのもスペース取って嫌だけど。とりあえず思いついたのはそういったことじゃない。
簡単に言ってしまえば「リア充爆発しろ」なんだけど。
なんとなくのイメージなんだけど、Facebook使っている人は(mixiもそうだったんだけど)現実世界の延長と言うか一部としてネットがある。でも僕にとってはネットは「ネットの世界」であって、リアルとは割りと切り離して考えている部分がある。だからリアルでネットの話をされるのはあまり好きではない。
ただこれは世代差もあるのかな?と思ってた。生まれた時からネットが身近に存在していて、普通にツールとして使い始めた若い人にとってはネットはリアルに存在するツールの1つでしかないし、電話とかと同じようなものとしての感覚しかないのかもしれない。
ただ、僕がネットに触れたのは大学に入ってからであり、明らかにリアルとは異質の世界がそこにあった。そしてリアルとは違う世界違う付き合い違う存在がそこにあった。だから「リアル」と「ネット」を切り離して考えてしまう。
でも自分と同世代またはそれ以上でもネットをリアルの一部として扱える人達はいる。これの違いは何なんだろうなー?と考えていて、で、Facebookはなんとなくそういう人たちのツールに思えてきた。リア充のツールに見えてきた。まぁ実名必須だったりして、明らかに現実をネットに持ってこようとしているしね。リアルとネットで世界を分けようとはしていないのは明らか。
ネットをリアルの一部として扱える人と違う世界にしてしまう自分との違いはなんだろうな?そういう文化に触れた経験の差なのかな?とか考えていた。
逆に考えてみた。
リアルという1つの世界しか考えられない人と、複数の世界を構築し両立できる人、と。そう考えたらちょっと合点が行った。初音ミクが機械音声としか聞こえない人と、そこに初音ミクというキャラクター人格を想像し扱える人の違いと似ている。自分の世界しか肯定しない(信じられない)人と複数の世界があると信じる(想像できる)人。
で、Facebookはやりはリアルをネットに持ち込んだものに見えるんだ、僕には。ネットの世界がリアルに侵食されているイメージがついてしまう。でTwitterはやっぱりネットの世界の安心感がある。ネタクラスタも安心して存在できる。もちろんTwitterにもリアルの世界を持ち込もうとする人は(たくさん)いて、「Twitterをビジネスに活かす」なんて言うひとはみんなそっち側なんだと思う。リアルのためにツールとしてのTwitterがある。あぁでも僕にとってはTwitterはリアルのためのツールなんかじゃなくてネットの世界の1つの場所なんだ。
この差が僕をFacebookに走らせないでTwitterで泳がせている理由なんだと思った。ごく個人的なイメージですが。
だからFacebookはやらないんだろうなぁ。前述のとおり侵食されているイメージもあるし、なにより現実だけでいっぱいいっぱいなリアルをネットにまで持ち込みたくないよ。
だから、ネットの話をリアルで僕に話しかけてこないでください。技術的な話とかはいいけど「ネットで話題の」をリアルにも持ち込まないでくれ。